そこはいつも薄暗くかび臭かった。
明かりといっても鉄格子の向こうにある通路を照らす程度のもので、照明というにはあまりにも心許ない。
檻の中でリリーは抱えたこんだ足にうずめていた顔を上げ、ぼんやりとした目で虚空を眺めた。
どうやら、少しばかり眠ってしまったようだ。
寝起きで頭の中に若干もやがかかったような状態のまま、あふ、と欠伸を漏らす。
夢を見ていたような気がする。
幼い自分と両親とそれなりに幸せな毎日を送ってた頃の夢。
農園の片隅から摘んできた花を見せると、母親は笑顔になり父親のごつごつした手が頭をなでてきて、それだけでとびっきり嬉しくなったという、内容的にはたったそれだけのものだった。
リリーは10歳になって間もないころ、両親によって奴隷商に売られた。
当時ほとんど自覚はなかったのだが、どうやらそれほど困窮した家庭だったらしい。
今更、両親のことは恨んではいない。
というのも、リリーにはその顔すらもう思い出せないのだ。
どれだけ記憶を手繰ってみても、のっぺらぼうにしかならない相手をどうやって恨めというのか。
覚えてることといえば、父親が自分の頭をなでるあの手の感触と温かさだけだ。
幼い自分にとって、それが一番嬉しいことだったんだろうなあ、と他人事のように思う。
ふとリリーは、通路を挟んで向こう側にある檻の中に目を向けた。
スリップドレスを着た、自分より少し年上に見える女性が四肢を放り出すようにして寝転がっているのがうっすら見える。
ここからは顔は見えないが、配られた食事に手をつけてない所から見るとずっとあのままのようだ。
そういえば、もう何時間も寝返りすらうってないのではないかと思い出し、死んでるのかもなと漠然と思った。

(死んでるかもって…)

何でもないことのように思ってる自分が、可笑しくなってリリーはふっと小さく笑いを漏らした。
しかし、数秒後には何が可笑しかったのかもわからなくなって、すっと笑いはひいていく。
不意に部屋の奥のほうから、何かに怯えたような悲鳴があがった。

「こ、来ないで!来ないでぇ!!」

狂ったように叫ぶ声にうるさいなと思いながら視線をそちらに移すと、案の上何もない虚空に向かって腕を振り回している少女がいた。
多分、薬でもやってて幻覚でも見えてるんだろう。
こういう光景もすでに日常的で、今更リリーも哀れにも思わない。
敢えていうならあんな風にはなりたくないなあ、ということくらい。
少女から視線を外すついで周りを見回すと、自分と同じように檻に閉じこめられた女性達の姿が目に入る。
全員比較的容姿が整っており歳も若い者ばかりで、中には少女に分類されるくらいの年頃のもいる。
当たり前だ。だってここいるのは全員アイツの愛人にされた・・・者達なのだから。
視線を足元に戻して、リリーはふと今何時なんだろう、と特に意味もないことを考える。
夕食を終えてすぐ何時間か寝たから、深夜あたりだろうか。
ここは地下だから窓というものがなくて、確証は持てないが。

(空が見たいな……)

自分が“商品”だった時のことをつい思い出して、ぼんやりと思った。
あの時は、まだ窓から空を眺めることができたからまだ希望が持てた。
いつか自由になれると漠然と、でも確かな望みが持つことができた。
でも、今のこの状況を見てみろ。
こんなに真っ暗で窓すらない地下に閉じ込められ、空を眺めることもほんの僅かな希望を持つことすらできない。
これほどまでに、「生き地獄」という言葉が当てはまる場所が他にあるだろうか。
きいと扉が開く音が聞こえ、何人かの足音がこちらに近づいてくる。
それはリリーの檻の前でぴたりと止まった。

(今日は私の番か……)

嫌だなあ、と思って抱え込んだ足に顔をうずめたまま気づかないふりを決め込んでみるが、鉄格子をカンカンとノックする音に観念して、腰を上げた。
いつもどおり、黒いスーツの黒いサングラスの3人組が特に表情を浮かべることもなく、こちらを見下ろしている。
がちゃりと音をたてて鍵が開き、外に出て手錠をかけられている間、ふと思いついて自分を囲んでいる男の一人を見上げると、

「死んでるかも」

向かいの檻の中に視線を向けて何気ない感じで言うと、その男が確認のために檻の鍵を開け始めた。
リリーは何気なくそれを眺めていたが、背後の男に早く行くように背中を押されて、不承不承歩き出す。
扉の前に来た時、さっき男が追いついてきたので肩越しに振り返ると、隣の男に向かって小さくかぶりを振っているのが目に入る。

(やっぱり死んでたんだ)

扉の向こうから差し込んできた明かりに目を眩ませながら、特に何の感情を抱くことなくただそれだけ思った。
まあ、彼女とは特別仲が良かったわけでもないし、あんまり喋ったこともないから無理もないかもしれない。

――諦めな。

ふと、ここに連れてこられた時、彼女に言い放たれた言葉を思い出した。
ここがどういう場所で、買い主がどういった男で、そいつに自分がこれからどういう目にあわせられるか一通り説明した後、彼女はこちらを一瞥して、ぽつんとそう言った。
その声には何の感情もこもっていなかったが、代わりにその目は絶望しきっていて、リリーは何も言えなくなったのだ。

(もう、とっくに諦めてるよ)

この世からいなくなってしまった彼女に向かって、今更あの時の返事をしていた。





連れてこられた部屋は主な照明は消されており、ベットの近くにあるスタンドライトだけがぼんやりと灯っているだけだった。
その明かりによって、ベットの上に一人の男が腰掛けているのがかろうじて認識できる。
その男の正面に立つと、男が顔をあげてにやりと笑った。
相変わらず、どこをどう見ても欠片も男前じゃない丸刈りの中年のつまらない男。
こいつこそがリリーを買い取った、御主人様・・・・だ。
男が黒服達に向かって頷きかけて、手錠が外される。
暫くこちらを見つめてから、自分の膝をぽんと叩いてみせてくると、内心嫌々ながらその膝にまたがって顔を俯ける。
そのまま男の手がプリーツドレスの肩紐を下ろし、こちらが抵抗しないことを確認すると、黒服達に顎をしゃくって部屋から下がらせた。

「顔をあげろ」

言われて仕方なく従ってやると、伸ばされた手がリリーの頬に触れてきて全身が粟立つのを覚えた。
しかし相手はそれに気付くこともなく、そのまま手を下に滑らせプリーツドレスを、その次に下着を剥ぎ取っていく。
リリーは自分がそうやって一糸纏わぬ姿になっていくのを、一切抵抗もしないでただ見ていた。
初めての時は散々抵抗した。
だが、男3人がかりで取り押さえられ、両手両足を縛りあげられた挙句そのまま強引に行為に及ばれてしまったのだ。
あの時の恐怖をもう一度味わうくらいなら、いっそこいつの言いなりになっている方が幾分かマシだ。
それを受け入れられなくて、麻薬で紛らわせようとしたりする人もいるが、その末路はあの地下室で何度も見ている。
あんなふうには絶対なりたくない。だから、耐えろ。
唇をぎゅっと引き結んで自分にそう言い聞かせていると、肩を押されそのまま組み伏せられた。
男に乱暴に顎を掴まれ、脂ぎった顔でこちらを見下ろして、

「言え」

何を、と問い返すまでもない。
この男は愛人として相応しいことを言えといっているのだ。
ただ、それはリリーにとってはこれ以上にない屈辱だった。
触れられるのもおぞましく全く愛してもいないこの男に、どうして愛の言葉を囁かなければならないのだ。
悔しさと屈辱のあまりに奥歯をぎっと噛み締める。
けれども、命じられた以上従わなければならない。
逆らったところで、あるのは暴力か最悪の場合死だ。
私はこいつの愛人で、奴隷だから。

「愛しています…。ご主人様」

プライドをねじ伏せ、できるだけ甘い声でそう囁きかけると男は満足そうににんまりと笑って徐々に唇を近づけてくる。
抗いたい気持ちを抑えつけて、ぎゅっと目を瞑った直後。
どごおおん!!
突如、何かが爆破されたような大きな音が聴覚に飛び込んできて、驚いて目を開いた。
緊急装置が作動したのか部屋の明かりがぱっぱと灯る中、男の方も体を離し「何だ?」辺りをきょろきょろして怪訝な声を出す。
すぐに内線鳴り出して男がスピーカーに咬みつかんばかりに、「どうした!?何が起こった!?」と焦った声で訊いている。

『しゅ、襲撃です!塀の何箇所かが同時に爆破された模様!』

切羽詰まったような声がスピーカーから聞こえ、男が眉をひそませた。

「警察の特殊部隊か?にしては余りに強引な気がするが……」

『それなんですが、今映像がこちらに』

唐突に言葉がぶち切られて、『そ、そんな…。まさか…』信じられないといったような声がスピーカーから吐き出される。

「何だ?さっさと言え!」

『れ、レッド・ウィングです!襲撃はレッド・ウィングによるもののようです!』

瞬間、男の表情が凍りつき、息を呑むのがわかった。
きっかり5秒絶句した後、男はさっきスピーカーから聞こえた言葉と同じことを呟いて、

「や、奴らをこっちに来させるな!戦闘員を総動員させろ!!」

『もうしてますっ!そちらにも、護衛を送って…、う、うわああああ!』

悲鳴を最後にぶつりと通信が途絶え、不自然なくらい静かになる。

(な、何?なんなの?)

一体何がどうなってるのか、この時点ではリリーには半分も理解できていなかった。
わかってることは今襲撃を受けていることと、レッド・ウィングとかいうのをこの男は酷く恐れていることくらいで。
そこまで考えてはっとする。
レッド・ウィングというのは、もしかしてこの男を殺そうとしているのか?
じゃあ、自分はどうなる?
助けてもらえるのか、それとも……。

「おい!お前!!」

男の声で思考が中断され顔を向けると、黒い銃口がこちらに向けられていて「ひっ」と短い悲鳴をあげてしまう。
それに対して男は一瞬鬱陶しそうな顔をした後、

「助かると思うなよ。お前は俺の所有物だ。だから、俺に従え!いいな!」

目にぎらぎらと物騒な光を宿し声を荒らげて言われ、こくこくと頷いた。
とにかく、怖かった。
男が自分を見つめる目が、向けられた銃口がただ怖くてしかたがなくて、ぎゅっとシーツを握り締める。
それからすぐに、部屋の外からいくつもの銃声が聞こえてきた。
それに紛れてどさどさっという音――恐らく人が倒れる音が何度かして、急に静かになった。
つーっと背中に嫌な汗が滑り落ち、無意識のうちに息を殺して廊下に続く扉に目を向ける。
瞬間、扉が突如として蹴破られ、その戸口に一人の姿を認めた。
全体的に黒い服を身に纏い、金髪で片目を眼帯で覆った青い瞳の、自分より幾分年下に見える少年。
身長もこちらより頭半分ほど低く、その顔からはあどけなさが見てとれる。
その容姿に反して、右手には血が付着した刀が握られており、少年はちらりとこちらを見た後、男にそれを向けた。

「降伏しろ」

まだ声変わりしたてというような、若干幼さを感じる声色で少年は短く告げた。
武器をむけられ動揺しているのか、男が黙ったままでいると、

「お前が反政府組織イエティーに加担し、資金を流しているという情報がある。大人しく降伏し、そいつらのことを全部吐くというのなら、こちらはこれ以上お前に危害は加えない」

「はっ!それで俺が従うと思ってんのか、このガキが!」

僅かに声を震わせながらも悪態をつく男とは対照的に、少年は表情を特に変えることなく彼を真っ直ぐ見据える。
そして少年がおもむろにこちら歩を進めた刹那。
男の手が閃き、リリーを後ろから乱暴に抱え込んで、そのまま首に腕をまわした。
リリーが驚いて反射的に身をこわばらせた瞬間、「来るな!」とこちらの側頭部に銃口を突きつける。

「それ以上近づいてみろ。こいつの頭を吹っ飛ばしてやる」

物騒な声色で男が言うと、少年は落ち着いた表情のまま、一応といった感じで足を止めた。
突然の展開にリリーは当然状況を飲み込めないでいた。
今、自分はこの男に捕まえられて、銃を向けられている。
向こうが動いたら、引き金を引くと言って。
それが意味するところまで思考が行き着くと、恐怖が全身を駆け巡り、足ががくがくと震え始める。
今まであの地下室で何度も誰かの死は見てきたし、それについてはもう何も感じることはなかった。
しかし、その死が今まさに自分にも迫ってきていると思うと、急にそれがとてつもなく恐ろしいものに感じられた。
何とかもがいて男から逃れようとするが、恐怖で体が硬直していてびくともしない。

「武器を置け。こっちに見えるように全部だ」

リリーをたてにして男が指示を飛ばすが、それを一瞥しただけで目の前の少年は動こうとしない。
早くしろとせかされても、まるでそれが聞こえていないかのように無視してこちらをじっと見ているだけだった。
嫌だ、と胸中で呟く。
それを合図に心の中で言葉が濁流となって、たちまちリリーを飲み込む。
嫌だ嫌だ嫌だ!
怖い怖い怖い!
このままだと、きっと躊躇なくこいつは引き金を引く。
だってこいつは自分のことを人間だって思ってないから。
ただの奴隷の一人だとしか思ってないから。
ふっと向かいの檻で死んでいた、あの彼女の遺体が脳裏に浮かんだ。
私もあんな風になるのか?
声を発することもなく、動くこともなくただ転がっているだけの存在に?
そんなの、絶対嫌だ。
死にたくない、死にたくないよお…。

「たす…け……て」

喉から絞りだすようにして発した声は酷く掠れ、おそろしく小さかった。
しかし、少年の耳には届いたのか彼はゆっくりと刀を鞘に収め、それを床に放り出した。
コートの内側からも小型の銃を取り出して静かに置くと、安堵したのか首にまわされた男の腕の力がわずかに緩む。

「よし。じゃあ、こっちに転がせ。まずは銃からだ」

言われると少年はこちらに視線を向けたまま腰をかがめて、指示通り男の足元まで転がした。
それを男が一度視線を下ろして確認し、再び顔を上げた時。
一瞬にして距離を詰めていた少年の拳がリリーの顔面すれすれの所を通り、男を吹っ飛ばして壁に激突させた。
急に拘束を解かれリリーが前のめりに倒れ込むと、少年がもう片方の腕を伸ばして受け止め、視線をこちらに寄越し、

「大丈夫か?」

「う、うん。ありがとう」

まだ事の成り行きについていけず若干放心しつつ頷いて、腕の主を見上げた。
少年はそっとリリーを支えて座らせると、つかつかと気を失っている男の元まで歩み寄り、男の手から銃をもぎ取って両手両足に手錠をかけ、身動きがとれないようにする。
そして同じ歩調で再びリリーのところまで戻ってくると、

「お前、服は?」

「えっ」

あまりにも平坦な調子で言われて数秒固まった後、自分が何も着ていないことを思い出して、慌てて両手で胸を覆い隠した。
顔がかーっと熱くなっていって、今にも火が噴き出しそうだ。
羞恥のあまり視線を外し、何も言えないでいると、ふわりと肩に何かをかけられびっくりして顔を上げた。
コートを脱いだ少年が近くに転がっている銃を拾いあげて、視線を寄越し、

「サイズ、小さいかもしれないけど」

それだけ言って、リリーの手をゆっくり引いて立ち上がらせた。
一時呆然として立ち尽くしていたリリーだったが、やがてのろのろと袖に腕を通してみると、ほんのりと残っていたぬくもりが直接肌に伝わってリリーを温める。
そのぬくもりが少年の体温であると意識した途端、何故か動悸が早まり体温がみるみる上昇。
今までこんなふうになったことは一度だってなくて、自分の感情なのにどうしたらいいのかわからない。

「これから、私たちはどうなるの?」

戸惑いを隠すように、視線を泳がせながら少年に問いかけた。
自分達は少なからず男と関わりがあるわけで、このままただで帰してもらえそうもないことはリリーにもわかる。
仮にそうだったとしても、自分のように行くあてのない者はこれからどうすればいいというのだろう。
そこまで考えて途方に暮れていると、少年が「そうだな…」と呟いて視線をこちらに向ける。

「とりあえず、本部についてきてもらって事情聴取を受けることになるな。といっても、知ってることを話すだけでいい。何も知らなきゃ、そう言えばいいし。その後、ちゃんと返すべき場所に帰してやる」

「帰る場所がない場合は……?」

「条件が該当するなら、孤児院に引き取らせる。必要なようなら、更生施設に入ることになるだろうけど。それ以外は、本人の行き場所が決まるまで、本部で保護って形になるな」

「保護」ということが頭の中で反響する。
それは助かったと受け取っていいのだろうか
もう、誰かに虐げられたり、辱めを受けたりしなくて済むということだろうか。
ひと筋の希望にすがりつきそうになるが、もう一人の自分がだまされるな、と制止をかける。
思い出せ、自分が今までどんな目にあったか。
今までそれにすがりついて、何度も裏切られたじゃないか。
掴もうとすれば、何度も蹴倒されたじゃないか。
どうせ今回だって………。

「安心しろ。もう、誰にもお前を蔑ませたりなんかさせない。絶対に」

え………。
見透かされたように言われて、目を見開く。
少年はこちらに瞳を向けたまま、強い声で、

「ちゃんと責任もって面倒もみる。途中でほっぽりだしたりなんかしない。希望するなら背中の烙印だって消してやる」

「なん…で……」

「さっき受け止めた時、見えた」

はっきりそう言ってから悪いな、と小さく謝罪の言葉を付け足される。
それを聞いた途端、今更ながらリリーはぱっとその場所を手で覆い隠して、そのまま目を伏せた。
何故だか、この少年にそれを見られたということが凄く嫌に思えた。
まるで、自分が奴隷だということを彼に知られたくなかったかのように。
奴隷になったのはもう何年も前だし、そんなこともう気になんかしてなかったはずなのに。
気まずさで痛い沈黙が降りたつ中、不意に俯かせていた頭の上にぽんと手を置かれる。

「今まで苦しかったな。もう、大丈夫だ」

和らげた声で子供をあやすように言ってから、少年はリリーの髪をくしゃくしゃとかき回した。
それは少し乱暴で、手の大きさも記憶しているものより全然小さくて、でも温かさはあの頃のものと全く同じで。
ぽろっとリリーの目から雫が一つこぼれ落ちた。
それから堰を切ったように大粒の涙が次から次へと溢れていき、ついには目の前の少年にしがみついて大きく声をあげて泣き出した。
子供のようにわんわん泣き続けていると、少年がこちらの背中に手を回してぽんぽんと優しく叩く。
その感触に余計に涙がとまらなくなり、しばらくリリーの泣き声がやむことはなかった。





「あの時は、ほんとみっともないくらい泣いたなあ。思い出すたびに、すっごく恥ずかしくなるもん」

苦い顔をしながら彼女は言ったが、その口調は穏やかでどこか懐かしんでいるようにも思えた。
その後、男に監禁されていた彼女達は、それぞれ働き口と住む場所とが決まるまで本部で保護されたという。
彼女自身も、現在はとある情報屋で助手として住み込みで働いているらしい。

「まあ、レンくんには最初は反対されたんだけどね。危険だからって。最近は諦めたのか、何もいわなくなったけど」

「大事に…、思われてるんですね」

自然とグミがそうこぼすと、「そうだったらいいんだけど」と自嘲するように彼女は少し笑った。

「レンくんとしては、折角助けたのにそれが元で危ない目にあったら、後味悪すぎるっていうだけなんだろうな、多分」

そう言ってから、伏せていた目を上げ、でもと付け足した。

「私にとってレンくんは一生の恩人だから。だから、少しでもいいから役に立ちたいの。それに、好きな人に対して何でもしてあげたいっていうのが女ってもんでしょ」

冗談っぽくこちら向けられたそのウィンクは、同性であるグミでさえどきっとしてしまうものだった。
自分が男だったら、さっきの一瞬で彼女のことを好きになっていたかもしれない。
それほどまでに彼女は魅力的で、この人に惚れない男性はいないんじゃないかと思えてならない。

「さてっと。昔話も終わったことだし、そろそろ帰らないとね」

「あ、お話、ありがとうございました。それから、引きとめちゃって、申し訳ありません」

席を立とうとする彼女にぺこりと頭を下げると、いえいえ、とにこりと笑顔を返される。
それから、「そうそう」と思い出したようにして、彼女は再びグミに向き直った。

「さっき、私がレンくんに大事にされてるみたいなこと言ってたけど、私が思うに、むしろそれはあなたのほうだよ」

「へ…?」

相手の思いもよらない言葉に絶句してから、一拍遅れて「ええっ!?」思いっきりひっくり返った声をあげた。
途端に、かーっと体中が熱くなっていく。
顔もみるみる火照っていき、鏡を見なくても真っ赤になっているのがわかった。
俯いてあー、とかうー、と言葉にならない声を何度か漏らして、

「そ、そんなこと」

「そんなことあるよ。だって、あんな素直なレンくん初めて見たもん。ちょっと嬉しい?」

「………む、胸が痛いです」

喉の奥からしぼり出すようにして、いまいち答えになってない言葉で返した。
とはいえ、今のグミにはそれ以外の返答は思いつかなかった。
さっきから胸が早鐘のように高鳴っていて、心臓が痛い。
それは歓喜とか嬉しいとかいう、そういうものとは根本的に違っていて。
いや、本当だとしたら大変嬉しくはあるんだけど!
ふと視線を感じて顔を上げると、屈んでじーっとこちらの顔を覗き込んでいる彼女と目が合った。
それから彼女はすくっと立ち上がって、

「そっかそっか、なるほどねー…」

と呟いて一人でうんうんと頷いてみせたりしてきて、その仕草にグミは強烈な既視感を覚える。
先日の中庭でのことといい、さっきのクオのことといい、最近他人にこういう反応ばっかりとられてるようで、流石に嫌になってくる。
一体何なんだとうろんげな視線を送ると、彼女は気にした風もなく首をすくめてやり過ごした。

「それじゃ、私はもう行くね。えっと……」

「グミです。グミ・マーシャル」

「私はリリー・アスベルト。よろしく。それから、ついでにグミちゃんに、一個だけアドバイス」

言いながらリリーはすっと人差し指を立てると、

「あなたはもっと自分に素直になったほうがいいわ。後悔したくないんだったらね。もっとも、私はそれでもかまわないけど?」

どこか挑戦的にそう言い残して、「じゃあね」とひらひらと手を振りながら、玄関ロビーの方へ去っていった。
その背中を、グミのほうは若干ぽかんとしながら見送ってから、空になったココアの缶をごみ箱に放り込んだ。
そして、何事もなかったようにいつもの歩調で歩き出し、中庭を通って宿舎に続く通路に差し掛かったころ、

(さっきの、どういう意味なんだろう?)

ようやくといった感じで、さっきのリリーの言葉に疑問を持った。
先ほどまで、完全に彼女のペースに乗せられていたので、どうやら一時的に思考が停止してたらしい。
入隊してからというもの、驚きの連続というか、個性的(ごく控えめにいって)な人達に振り回されっぱなしだな、と苦笑いしてしまう。

「自分の気持ち、かあ…」

知らず口からこぼれて、首をひねって考えてみる。
その時、ちょっと前まで胸の中にあった黒いもやのような感情が消え去っているのに気づいた。
どれだけ掻き消そうとしても消えなかった感情が知らないうちに消失していて、拍子抜けするのと同時に、ほんのちょっとだけ安堵した。
結局、あの感情の正体はわからないままだったけど、これでむやみに悩まずに済むと思うと少し心が軽くなる。

―――あなたはもっと自分の気持ちになったほうがいいわ。

さっきリリーの言った言葉を思い出して、ふと足を止める。
もしリリーのいうように自分に素直になれたら、あの感情がどういったものかわかるのだろうか。
それは知ったほうがいいのかどうかは、今はまだわからないけれど。
ふわりと吹いた穏やかな夜風をその体に受けながら、グミはそう思った。




4/5
←Back
後書き→
メニューへ