記憶を辿ると、一番最初に思い出すのは檻の鉄格子の冷たい感触。
その次は両手足につけられた鎖の重み。
それから、泥にまみれたぼろぼろの服。
あと、生命維持のためだけに支給されていた、あのまずい食事。
当時の自分は、周りの祈りの声やうめき声を聞くたび、ああここは地獄なんだと思っていた。
そして、鉄格子の向こうの空を見上げいつも願っていた。
ここから出られるなら誰でもいい。早く自分をここから連れ出して欲しいと。
それが叶った日、私はようやくいいようのない喜びを覚えた。
その時こそが、本当の地獄が始まりだったということを露とも知らずに。
「美しい訪問者」
夕食を済ませ食堂を出ると、レンとネルが顔をつき合わせて何か話しているのが目に入った。
といっても、それは会話という穏やかなものをすっ飛ばして口喧嘩となっており。
「そんなことも配慮できないで、よく今までやってこれたな。呆れを通り越してむしろ尊敬する」
「はあ!?どういう意味よ、それ!」
「そのまま意味だ。他にどういう意味にとれる?」
「うるっさい!っていうか、配慮が足りないとか、あんたに一番言われたくないわよ!!」
とまあこんな感じ。
一方は炎のようなオーラを立ちのぼらせ、完全に怒りを露にして。
一方は呆れ返った顔で、しかしその眼光は鋭くて吐き出す言葉はいちいち一言多く。
グミとテトはそれを少し離れた所で、ああ、またかという感じで眺めていた。
ここでの生活が始まって一週間あまり。
しかし、これが日常の風景に思えるくらいに、結構な頻度で二人はこういうやり取りをしている。
だが、お互いのことを信頼してることは任務で見て取れたし、決して犬猿の仲というわけではない。
そういえば、この二人が相手の陰口を言ったりしている所を、見かけたことがない。
ということは、二人ともお互いのことをそんなに悪く思ったりはしてないように思える。(少なくとも、一方は確実にそう)
なのに、顔を合わせると大抵はあんなふうに言い合っているわけで。
この二人の関係がいまいちよくわからないなあ、とグミは疑問に思うばかりである。
少しして、レンの言葉にネルが「はあ!?」と声を上げたので、そろそろ止めないとまずいかな、と隣のテトをちらっと見やる。
すると、テトも丁度そう思っていたのか視線がばちっと合い、そのまま経つこと2、3秒。
頷き合い、睨み合っている二人の仲裁に入ろうとしたとき、
「お〜、今日も仲良く痴話喧嘩かい?お二人さん」
「誰が痴話喧嘩よっっ!!」
通りすがった隊員の言葉に、ネルは間髪入れずに切り返した。
その声を真正面から受けたその隊員は僅かにのけぞってから、「誰がって……」と二人を見比べる。
「はたから見たら、そういう風にしか見えねーんだけど?」
「やめてくれ。こんな奴こっちから願い下げだ」
「なっ!!」
ネルは一瞬本気で傷ついた顔をして絶句した後、「それはこっちの台詞よ!!」と怒鳴り返してぷいっと顔を背ける。
それを見て、その隊員が「あー、あー」と苦笑いを浮かべていると、
「そんなことより、何か用か?」
「あ、そうそう。玄関ロビーにお客さんだぜ、レン」
「客?」
「またまた〜。とぼけがって、こんにゃろう」
からかい口調で肘でわき腹を小突いて来るその隊員を、レンは心底鬱陶しそうに睨み返す。
しかし、その隊員は気にした風もなくにやにや笑って。
「ほら、あの人だよ。金髪の綺麗なお姉さん」
それを聞いてか、ネルがばっと振り返ってレンを不審な目でじとりと見やった。
レンの方はというと少し目を見開いてから、「あー…」何か思い当たる節があったのかその視線を横に流して、
「わかった。行ってくる」
「おー、後で話聞かせろよー」
足早に立ち去るレンの背中に呼びかけた後、レンに向けられていたネルの視線が隊員に移り、彼は露骨にやばいという顔をした。
「じゃあ、俺、晩飯食いにいくから。またな、ネル」
「ちょっ、待ちなさいよ!クオ!」
何か言われる前にというように、その隊員はネルの制止を背中に浴びながら、そそくさとグミとテトの脇を抜けていく。
彼がグミの横を通る時、ふと目があった。
それはほんの一瞬のことだったが、確かに視線がぶつかり合い、グミはなんとなく振り返ってその背中を見送る。
不思議に思って、一人小首を傾げていると、
「あんたら、いつからいたの?」
声をかけられて、そちらに視線を戻すとネルが若干気まずそうにしていて、返事の代わりに苦笑を返した。
「さっきの人、誰なんですか?」
背後を一瞥して尋ねると、ネルも一瞬そちらに目を向けてから、
「学生時代の同期で、レンのルームメイトだった奴よ。何かと一緒に行動することが多かったからね。さっきみたいにちょっかい出してくんの」
「痴話喧嘩って言われてましたもんね〜」
「そこから見てたの?」
「いや、それよりもうちょっと前からです」
テトが正直にそう答えると、「いたんなら、声かけなさいよ…」ため息まじりにぼやいた。
あれはどう考えても容易に声をかけられる雰囲気ではなかったのだけど、とグミは胸中だけで弁解しておく。
「で、今回は何が原因だったんですか?」
いつものようにテトが問うと、ネルは一旦口をつぐんで、
「グミ」
「はい?」
いきなり呼びかけられるが、ネルが仏頂面のまま何も言わずこっちをじっと見てくるだけなので、つい条件反射で身構えてしまう。
(…?何か気に障るようなことしたっけ?)
そう思って記憶の中をまさぐってみるが、まったく思い当たらずますます困惑する。
少しして、ネルは視線を斜め下に向けると、もごもごと話し始めた。
「あの……。ほら、この前のことなんだけど……。トレーニングに無理矢理つき合わせて…、その…、悪かったわ。任務の疲れが残ってることとか、ちゃんと配慮してなくて……、ごめん。これからは…、気をつけるわ……」
「え?あの……、はい…」
しどろもどろな上に、あのネルが珍しく謝ってくるので、驚いてこっちまで同じような返事になる。
数日前、そういうことがあったのは事実だ。
ついでにいうと、その翌日筋肉痛と疲労がピークに達して、起き上がれることさえできなかったというのも。
でも、グミ自身そのことについて大して気にしてなかったし、いまいち腑に落ちないでいると、テトがポンと手を叩いて、
「つまり、さっきそのことでアシュフォード先輩に怒られてたんですね?」
図星だったのか、ネルはぐっと唇を噛んで黙り込んだ。
そういえば、前にレンが「今度強く言っておく」って言ってたっけ、とグミも思い出す。
レンのことを考えたからか、ふとさっきの隊員が言ってたことが頭に浮かび、それはそうと、と話の方向を切り替えた。
「さっきアシュフォード先輩にお客って言ってたけど、誰なんでしょうね。女の人みたいですけど」
「そ、そうよ!こんなことしてる場合じゃなかった!」
はっとネルが顔を上げて、がっとこちらの手を掴むので、「え?え?」と嫌な予感がしつつネルと掴まれた手首を見比べて、
「どこに行くんですか?」
「レンを追いかけるに決まってるでしょ!」
「なんで私達まで!?」
「いいから、ついてきなさい!」
ネルに半ば引きづられるように連れて行かれながら、同じように手を引かれてるテトを見るが、諦めろというように首を振ってくるので、「えー…」とグミは小さく不服を漏らした。
受付によると待合室で待ってるとのことだったので、そちらに向かうとガラス戸越しにぽつぽつと何人かが椅子に座っているのが見えた。
中に入って辺りを見回すと、ある一人の女性の姿に目が留まる。
陶磁器のようになめらかな白い肌に、きらきらした長い金髪、深い青の瞳がどこなく印象的で、鼻筋はすっと形よく通っている。
どこらへんが基準なのか知らない(興味ない)が、レンの目から見ても彼女はそうとうな美人だと認識できる。
歩み寄ると、足音で気付いたのか彼女はこちらを振り仰ぎ、ぱっと顔を輝かせて立ち上がった。
「レンくん、おそーい!」
「待ち合わせもしてないのに、遅いもくそもあるか。来る時は連絡いれろっていつも言ってるだろ」
彼女――リリー・アスベルトが漏らした不平をばっさり斬り捨てると、えへへと舌を出して笑い、
「だって、びっくりさせたかったから」
「ああ、びっくりしたよ。お前のその常識のなさ具合に」
呆れた目で見やって「ほら、行くぞ」と促して歩き出すと、小走りで追ってきて、腕を絡めそのまま寄り添ってくる。
げんなりとしながらも好きにさせていると、不思議そうな顔をしてこちらの顔を覗きこんで、
「あれ?今日は嫌がらないの?」
「どうせ、言ったところでやめないだろ」
「まあね」
ふふっと笑うリリーの顔を見てレンはまったくと嘆息を漏らし、仕方なしに歩調を合わせて歩いてやる。
それにしても、とどこか嬉しそうにしているリリーの顔を見ながら、もうこんな風に笑えるようになったんだな、と少しばかり安堵した。
最初に会った時はずっと不安そうにしていて、これから大丈夫だろうかと気にかけていたものだったが。
不意に視線を感じ、背後を振り返る。
視界に映るのはいつもの玄関ロビーの光景で、特に変わった所はない。
あくまで視覚で感知できる範囲ではだが。
「どうしたの?」
急に振り返ったレンを怪訝に思ったリリーが声をかけてきて、「いや、何でも」と短く返して視線を外した。
「あっぶなかったですね〜」
壁にへばりついて安堵のため息をつきながら、壁の陰から通路の向こうを覗き見てるネルにテトは声をかけた。
「ねえ…、もうやめません?やっぱり尾行なんてよくないですよ」
「しっ!静かにしないと、気付かれるでしょ!」
グミの何度目かになる提案を聞き入れることなく、ネルが声をひそませて言い放つ。
テトはテトで案外乗り気で「どうですか?」と訊いてたりしていて、グミは一人がっくりと肩を落とす。
玄関ロビーに着いた時、ちょうど待合室からレンが例の客人と思われる女性と腕を組んで出て来て、それを見るや否や、ネルが尾行すると宣言し、それにテトが乗っかってしまい…、という流れでこうして自分も付き合うはめになってしまった。
中庭の方にレンが向かうのを確認すると、姿勢を低くさせて足音を忍ばせる二人の後を、後ろ暗い気持ちを抱きつつ仕方なしに続く。
ぐるりと中庭を囲む形になっている回廊の陰から、中腰でひょっこり顔を出すと、レン達が殲滅部隊エリアの方に姿を消すのが見えた。
訓練施設は関係者以外立ち入り禁止になっているため、恐らく宿舎に向かっているのだろう。あの女の人と一緒に。
そう思うと、胸がずきりと痛んだ。
「ネル先輩、もうやめましょう?アシュフォード先輩にも悪いですし……」
「じゃあ、何?あんたはあの二人がどういう関係か知りたくないわけ?その辺はっきりさせたいでしょ?」
「それは……」
何か言おうとしたが咄嗟に言葉が出てこなくて、絶句して顔を俯けてしまう。
グミがそれ以上何も言わないことを肯定ととったのか、ネルはふんと鼻を鳴らして「なら、黙ってついて来なさい」そう言うと足を忍ばせ二人の後を追っていった。
全く知りたくないといえば、嘘になるのは確かだ。
他人とできるだけ関わろうとしないはずのレンが、女性と腕を組んでいた(しかも仲がよさそうに)となれば興味を持たない方が難しいと思う。多分。
でも、その一方でグミには知りたくないという、それとは全く逆方向の気持ちもあった。
しかもそれは、「知らなくてもいい」じゃなくて、純粋な「知りたくない」という想いだった。
だって、あんなに仲良さそうにしてたら、もう答えも出たも同然じゃないか。
その上、当然のように自分の部屋に通せるっていうことは、つまりはそういう関係だという可能性が高いわけで。
でも、高いってだけで確定してないわけで、それをはっきりさせたいような、させたくないような感じで。
そういうことをぐるぐる考えていると、段々自分がどうしたいのかわからなくなってきて頭の中がぐちゃぐちゃし始めるのと同時に、胸に黒いもやのような感情が芽生え、広がっていくのを感じた。
それが何故だか凄く嫌で頭を振って追い払おうとするが、消えずに胸の奥にそれは居座り続けていた。
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