自分の荒い呼吸と早鐘のように打つ心拍の音だけが聴覚を支配していた。
走り続けているせいか、足が酷く重く感じる。
だが、走るのをやめるわけにはいかなかった。
そうしないと、あいつらに捕まってしまう。
その事実がさらに焦燥感を募らせていく。
熱を持った頬に汗が伝って雫となり、零れ落ちる。
次から次へと頬を伝っていくそれが汗じゃないと気が付いた時、どうしようもなく情けなく思えた。
大切なものを何一つ守れず、逃げることしかできなかった自分がただただ情けない。
嗚咽を漏らし、頬を伝う雫を乱暴に拭いながら脇目もふらず走り続ける。

「リン……」

呟くようにその名を呼んだ。
それはついさっき置き去りにした、この世界で一番大切だった“彼女”の名であった。


「月夜の殺戮」


見上げると吸い込まれそうなほど真っ暗な空の中で、やけに明るい月が辺りを照らしていた。
その周りにぽつぽつと頼りなさげに輝く星が散らばっている。
夜空を隻眼となった左目に映しながら、レンはあの頃みたいだな、とふと思った。
あの時も月がやたらと明るくて、逆にそれが不安感を増していったのを今でも覚えている。
ちらりとあの時のことが頭の中をよぎり、レンは知らぬ間に両の拳を握り締めているのに少し遅れて気付いた。
あの日のことは片時も忘れたことはない。
否、忘れるはずがなかった。
なぜならあの日は……。
不意に無線機からザザッというノイズが漏れ出す。

『こちらA地点。ターゲットを含め5名がそちらに向かった。追撃を頼む』

「了解」

無線機から聞こえる事務的な言葉に短く答え、アーチ状の橋の方を向く。
あそこから来るとしたらここしか道はない。
すらりと鞘から刀を抜き待機していると、さほど経たないうちに何人かの人影が近づいてくるのが確認できた。
向こうもこちらに気が付いたようで一瞬警戒の色を露にしたが、一人しかいないことに気付いたのか張り詰めた空気が少し緩む。
どうやら相手が一人なら勝てると思っているらしい。
レンは胸中で呆れの溜息を漏らし、相手の顔をざっと眺めた。
柄の悪そうな顔や厳つい顔が並んでいるところからすると、おかかえの殺し屋とかだとすぐに察しがつく。
恐らく真ん中の小太りで、ヒキガエルのような顔を少し青くさせている男が今回のターゲットだろう。
レンが刀を構えると、向こうも各々の武器を構えて一時睨み合う。
先に攻撃を仕掛けてきたのは、長剣を構えていた2人の男だった。
2人同時に斬りかかってきたが、レンはそれを難なくかわすとすぐに反撃へ転じる。
ギリギリの所でその斬撃は防がれてしまったが、そのまま剣を受け流し、よろめかせた瞬間に迷わずそいつの心臓に刀を突き立てた。

「この野郎!」

もう1人の方の力任せの斬撃をかわして、今度はそのまま後ろに飛び退く。
刹那、さっきまでいたところに上から男が降ってきて、そこに槍をつき立てていた。

「邪魔すんな!」

「いやー、俺今日そんなに働いてないし〜」

そんな感じで長剣の男と槍の男が言い争っているのを、レンは少し離れた所で見て小さく吐息を漏らした。

(バカだな…、こいつら)

戦闘の途中なのにどうでも良いことで言い合ってるとか本当にバカだ。
いや、寧ろこっちがなめられているのか……。
ならばと一つ深く息を吐くと、地面を蹴って長剣の男との間合いを一気に詰める。

「おい、お前ら!」

と後ろの1人が声をあげたが、すでに遅い。
男が構え直す前に剣をその手から弾き飛ばすと、そのまま真っ直ぐに斬り捨てた。
直後、後ろの男が銃を構えるのを視界の端で捕らえ、横から攻撃をしてきた槍男を引っ張りよせ飛んできた銃撃の盾にして防ぎきる。
仲間を撃ってしまい唖然としている隙にそいつの懐に入り込み、胴を真っ二つに薙ぎ払った。
崩れ落ちる男の後ろにいたヒキガエルを睨みつけてやると、情けない声で「ひぃ」と鳴いて逃げようとするが、そのままみっともなく足をもつれさせ尻餅をつく。
助けてくれとか、頼むとか喚き散らしているのを聞き流し容赦なく喉元に刀を突きつけると、釣り上げられたばかりの魚のように何度か口をぱくつかせて、

「ま、まさか…、お前がレッド・ウィングの」

その言葉を最後まで聞き終わらないうちにヒキガエルの首をはねた。

「こちらB地点。ターゲットの殲滅完了した」

『了解。今から処理部隊を向かわせる。それまでそこで待機しててくれ』

「わかった」

無線機を切ると後ろで呻き声があがり、多少驚きながら振り返ると、槍男が両腕をついて起きあがろうとしていた。
どうやら運良く急所は外れていたらしい。
とはいえ致命傷を負ってるのでそのままほっといても死ぬだろうが、念のため上からそいつを踏みつけ刃を向ける。
さっきまでの飄々としていた表情を憎悪に似た表情に変え、槍男はこちらを睨みつけて、

「くそっ…、お前…みたい…な…ガキに」

吐き捨てるように言われたその言葉に、少なからず不愉快に思いながら、一方でようやく合点した。
なるほど戦ってる最中にあんなに余裕をかましていたのは、一人だったこと以外に子供だと思われていたことも原因だったらしい。
咳をして粉末のような血を吐いたその男を文字通り見下ろしながら、

「ガキで悪かったな」

その一言とともにそいつの脳天を貫いた。
レンは今度こそ動かなくなったその死体を暫く眺めていたが、ただそこにあるものとしてみるだけで何も感じなかった。
昔はもっと何か思っていた気がするが、今では何の感情も湧き上がってこない。
ふと、もう一度空を見上げた。
あの頃と比べて自分は随分と遠い所まで来てしまったものだな、とレンは胸中で呟いた。





「こいつで間違いないか?」

「はい。体格も容姿も写真と一致してます」

手元のボードに何やら書き込みながら、それにしても、と一度現場を見回してから、

「すごいです。本当に彼らを1人で短時間で倒したなんて」

感心されたような口調で言われたが、これが大したことだとはレンには思えなかった。
命令された通りやっただけだし、相手もそんなに苦になるほど強かったわけでもない。
やれて当たり前の成果だったと思う。ただそれだけだ。

「まだ確認することはあるか?」

「いえ、もう大丈夫です。あとはこちらの仕事ですので、帰投されてもかまいません」

「じゃあ、そうさせてもらう」

ターゲットの確認をすると、もうすることはないので、踵を返して帰路に着いた。
お疲れさまです、という声をかけられたりするがとくに返事をせずそのまま通り過ぎていく。
暫く歩いたあと、なんとなく振り返り、現場を眺めてみた。
処理部隊の面々が書類に書き込みをしたり、死体をトラックで運んでいくのが見える。
彼らの仕事は主に任務の完了後の後処理と、ターゲットの駆逐の確認だ。
運ばれていった死体はあとで解剖されて、死因がこちらの証言と食い違いがないか確認される。
もしそれが発見されるとただちに尋問され、場合によっては罰則を与えられる、というシステムになっていた。
またこの部隊には怪しげな実験が行われてるだとか、その他色々胡散臭い噂が流れている。

(怪しげな実験……か)

数ある噂の中でこれだけは一応的を射てるものであった。
そっと眼帯越しに右目に触れる。
これをつけることになったのも、彼らのせい、否、おかげというべきだろうか。
しかしここから見える彼らだけを見ていると、裏であんなことをしているとは到底思えなかった。
それもそのはずで、あそこにいる彼らの中でそのことについて知っている人間は恐らくいない。

(そういえば、そろそろアレがあるな……)

近いうちにあいつと会わないといけない、と思うと少し気分が落ち込む。
悪い人間ではないのだが、レンには彼への苦手意識が根付いている。
少し憂鬱に思いながら、歩き出した時だった。

「お疲れー!少年!!」

背後から無駄に明るい声で呼び止められ、レンは追い討ちをかけられたような気分になった。
振り返ると長い金髪をサイドテールにして黒い制服を着た、思ったとおりの女がいて早速気が滅入る。

「何よ、その『やっぱりお前かー』みたいな顔は」

「任務終わりでお前に話しかけられたら、嫌でもそんな顔になる」

「はあ?折角私が、あんたを元気付けてやろうとして声をかけてやったのよ?少しは感謝しなさいよ!って、こらー!」

相手の文句を聞くつもりは毛頭なかったので、そのまま放置してさっさと帰投ポイントへ向かうと、後ろから怒号が飛んできた。
それから、彼女は走って前に回り込んでくると、いきなりビシッと指を指してきて、

「人の話ちゃんと聞きなさいよ!あんた私を何だと思ってるわけ!?」

「ネル・ハーパーとかいう名前の、いつも必要以上にうるさい女」

我ながら辛辣な言葉で返してやると、ネルはついに怒りの頂点に達したのか、顔を真っ赤にして拳をこちらに向かって振りかぶってきた。
レンはそれをひらりと横によけて、勢いづいて前に2、3歩よろめいたネルの脇をするりとすり抜ける。
「ま、待ちなさいってば!」と小走りで追いついてきたネルに溜息を漏らし、

「なんでついて来る?」

「私も帰るのよ!悪い!?」

語調を荒くして答えるネルに何か言う気も失せ、横目で一瞥して黙って歩く。
こっちの歩調を合わせてぴったりと横についてきているが、顔をむくれさせている所からまだ怒っているのだろう。
そんなに怒ってるんだったら歩調をあわせずさっさと行けばいいのに、と言えばまたぎゃんぎゃん言い出すのは目に見えていたので、思っておくだけにしておく。
前方に送迎用の車が見え出した時、そういえば、とそれまで黙りこくっていたネルが思い出したように言った。

「ターゲットの護衛の4人全員、1人でやったんだって?」

「それがどうかしたか?」

「どうかしたかって…、あいつら結構名が通った奴らよ?実際こっちも何人かあいつらにやられたし」

聞かされた事実に、何だ一応腕の立つ奴らだったのか、と少なからず意外に思った。
相手が子供だと思って油断していたことから、てっきりそんなに場数を踏んでない奴らだと思っていたのだが。

「まあ、二つ名は伊達じゃないってことかしらね」

からかうようにネルが言ったことに、レンは思わず眉をひそめた。
レンは自分の異名をあまり好ましく思っておらず、ネルも勿論そのことを知っている。
さっきのお返し、と言わんばかりに顔をニヤつかせている彼女を睨みつけると、肩をすくませてから、

「ま、あんたが楽に奴らをやれたのも、増援があんたのとこに行かないようにしてた、この私のお陰なんだけどね〜」

これみよがしに言うネルの言葉で、レンは唐突に足を止めた。

「ネル、知ってるか?」

「な、何よ?」

怪訝に思って振り返ったネルを見つめ、十分に間をおいてから、

「寝言って、寝て言うもんなんだぞ」

それだけ言うと、きょとんとしているネルの横をさっきより速い歩調で通りすぎる。
車に乗り込もうとした時、ようやくさっきのレンの発言の意味が飲み込めたのか背後から「何よ、それー!!」と言う怒声が飛んできた。
何事かと運転手が2人を交互に見比べるのを感じたが、レンは何も聞こえなかったように窓の外に視線を逃がした。



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